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「近・現代」様式では、作曲家たちはさらに自由で実験的な作品を発表するようになりました。20世紀を迎え、社会情勢の変化や科学技術の発達に伴い、これまでになかった響きや斬新な表現を求められたのです。これまでの「ロマン主義」の直接的で力強い表出性を持つ表現に対し、ドビュッシーらによる「印象主義」の作曲家は、ほのめかすような控えめな表現を特徴とし、光や風などのイメージの世界を表現しようとしました。一方でドイツ、オーストリアでは特殊な楽器奏法を用いた作品を書き、人間の内的な体験を表出しようとする「表現主義」と呼ばれる動きが起こりました。またこれらの傾向への反発や、急激な調性の崩壊に対する危機意識から「バッハに帰れ」を合言葉に、意識的にバロック時代の組曲などの形式を使用して古典的な形をとる「新古典主義」の音楽が作られるなど、20世紀の芸術音楽はそれまでにない多様性を生み出すことになりました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)
サティは20世紀フランスの天才的作曲家で、その作品、および、彼の行動は常軌を逸している。
サティは1878年にパリ音楽院に入学したが、保守的なアカデミズムが気に入らず、反アカデミズム、反ロマン主義を貫いて音楽院を退学し、その後はモンマルトルのカフェでピアノを弾いて生計をたてた。
その間、サティは読書に没頭し、アンデルセン童話を愛読し、ゴシック建築を研究してピアノ曲「4つのオジーブ(尖弓形)」(86年)を作曲した。
また砲兵隊に入隊したが、故意に気管支炎にかかり除隊となる。
サティは19世紀のロマンティシズムに訣別し、1890年には調号と小節線を廃止したピアノ曲「3曲のジムノペディ」を書き、ドビュッシーやラヴェルに大きな影響を与えた。
サティは1905年から3年間、スコラ・カントルムでダンディに師事したが、その頃からピアノ曲「犬のためのぶよぶよした本当の前奏曲」(12年)、「乾からびた胎児」(13年)、「スポーツと気晴らし」(14年)などを書き、16年にはジャン・コクトーの台本で、ピカソの装置と衣装によるバレー音楽「パラード」を書いた。
「パラード」のオーケストラにはサイレン、飛行機の爆音、タイプライター、ピストル、ダイナモの音などが入っており、前人未踏のオーケストラとなっている。
また、サティは彼とコクトーを賛美する"6人組"のミヨー、オネゲル、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールを庇護し、彼らの音楽を世に紹介することに努めた。
サティの音楽はユーモアに富む一方、鋭い風刺と、純粋、且つ、高度に知的な表現でできており、他に類を見ない。
(出典:ピアノレパートリーガイド)