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トップページ > モーツァルト(MOZART, Wolfgang Amadeus)
「古典派」とは、バロック様式の後をうけて西ヨーロッパを中心に各地に展開した新しい様式です。器楽音楽の抽象性・絶対性が重視され、バロック時代に器楽よりも優位にあった声楽は器楽にその地位を譲るようになります。18世紀前半から次第に音楽の中心は宮廷や貴族の邸宅から公開演奏会へ移って行きました。この時代「ソナタ形式」が確立し、ピアノをはじめ、ヴァイオリン、チェロの他、オーケストラのためのソナタ、すなわち交響曲や協奏曲などソナタが数多く作られました。この時代の代表的な作曲家としては、主にウィーンで活躍した「ウィーン古典派」のハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンがあげられるでしょう。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)
モーツァルトはハイドン、ベートーヴェンと並んで古典派の音楽を形成した3大ウィーン古典派の1人。
ザルツブルグの大司教に仕える楽師を父に生まれたモーツァルトは、姉のナンネルとともに父レオポルドからチェンバロの手ほどきを受け、天才ぶりを発揮した。
5歳の頃にはすでに作曲をしており(1761年に書いた「アンダンテ ハ長調」が発見されている)、8歳で最初の「交響曲」(54年)を作曲している。
1762年からの約10余年、モーツァルトの父親は一家をひきいて(時にはモーツァルトと2人で)ヨーロッパ各国、各地の宮廷や貴族の邸を演奏して歩き、神童モーツァルトを披露した。
63年にはヴェルサイユの宮殿で姉のナンネルとフランス国王ルイ十五世の御前演奏をしている。前後するが、ウィーンでは前古典派の大作曲家ヴァーゲンザイルと出会い、シュヴェッチンゲンではマンハイム・オーケストラを知り、ロンドンではヨハン・クリスチャン・バッハから作曲の指導を受けるなど、この時代の旅行はモーツァルトにとって収穫の多い実践教育の場であった。
モーツァルトは69年からザルツブルク大司教の宮廷楽師に就任したが、職務怠慢で厳しい戒告を受け、81年に大司教と決別する。
その後はウィーンに定住し、作曲とピアノで生計をたてたが、91年に35歳の若さで他界した。モーツァルトはオペラの傑作「フィガロの結婚」をはじめ、あらゆるジャンルに600曲以上の作品を残している。
当時はバロック期のポリフォニーに代わってホモフォニー(和声法に基づいた旋律と伴奏の音楽)が隆盛を極めた時代で、モーツァルトはバロックのフランス宮廷でクープランやラモーらによって芽生えた"艶美(えんび)様式"(Style Galant)の流れを汲んでおり、ピアノ曲は端正で優雅な旋律にアルベルタ・バスの伴奏がついたものが優勢である。
一般的に有名な作品はオペラ「フィガロの結婚」(86年)や、弦楽器用のセレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525」(87年)であろう。
(出典:ピアノレパートリーガイド)