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トップページ > ラフマニノフ(RACHMANINOFF, Sergei)
「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)
父は退役軍人、母は将校の娘というロシアの貴族の家に生まれたラフマニノフは、当然、陸軍将校になる運命にあった。
しかし、ロシアの農奴解放という社会情勢の中で父は領土を失い続けて破産し、1882年に両親が別居し、ラフマニノフは母と一緒にペテルブルクに移る羽目におちいったが、それがラフマニノフの音楽への第一歩となったのである。
ラフマニノフは最初、ペテルブルク音楽院に入学したが、従兄でリストの高弟の1人だったコンサート・ピアニスト、ジロティのすすめで、モスクワ音楽院に移り、ピアノをズヴェレフに、作曲をアレンスキーとタニェエフに師事し、後にジロティからもピアノを学んだ。
ラフマニノフは91年にピアノで第1位の成績を取り、プーシキンの詩"ジプシーたち"に題材を取ったオペラ「アレコ」で金メダルを獲得し、モスクワ音楽院を卒業した。
彼が在学中に作曲した「ピアノ協奏曲 第1番」(91年)はOp.1として出版され、92年に作曲した「ピアノ前奏曲 嬰ハ短調」は大きな反響を呼んだ。
卒業後はモスクワのマリンスキー女子専門学校でピアノ教師を務めるかたわら、作曲と演奏を続け、ピアニストとしての名声を築いたが、95年に作曲し、97年にグラズノフの指揮で初演された「交響曲 第1番」が全くの不評に終わり、一時期、自信を失いノイローゼになった。
しかし、モスクワの精神科医ダール博士によって治癒され、「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」(1901年にダール博士に献呈された)を書き、この曲で彼の作曲家としての名前はゆるぎないものになった。
1905~06年はボリショイ劇場の指揮者を務め、07~09年はドイツのドレスデンに住み、「交響曲 第2番」他の大作を書き、09年にはアメリカに渡り、ボストン、ニューヨークなど主要都市で指揮やピアノの演奏活動をした後、10年にロシアに戻る。
17年まではロシアで活躍したが、1917年の革命後、ラフマニノフはパリに亡命し、その後はピアニストとしてヨーロッパとアメリカで活躍を続け、43年にカリフォルニア州ビバリーヒルスで他界した。
ラフマニノフはあらゆるジャンルの作品を書いているが、ピアノの作品はとりわけ重要であり、前述の作品の他に、「絵画的練習曲集 Op.33」(11年)、2つの「ピアノ・ソナタ」(7年、13年)、「パガニーニの主題による狂詩曲」(34年)は特に有名である。
彼はチャイコフスキーに代表されるロシア・ロマン主義の伝統を継いでおり、憂愁をおびた抒情的で甘い旋律が世界の人々から愛されている。
(出典:ピアノレパートリーガイド)