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ラヴェル(RAVEL, Maurice)

生年月日:

1875/03/07

没年月日:

1937/12/28

享年(満年齢):

62歳

出身地:

フランス

性別:

星座:

うお座

音楽様式:

近・現代(19世紀終わり頃~20世紀)

「近・現代」様式では、作曲家たちはさらに自由で実験的な作品を発表するようになりました。20世紀を迎え、社会情勢の変化や科学技術の発達に伴い、これまでになかった響きや斬新な表現を求められたのです。これまでの「ロマン主義」の直接的で力強い表出性を持つ表現に対し、ドビュッシーらによる「印象主義」の作曲家は、ほのめかすような控えめな表現を特徴とし、光や風などのイメージの世界を表現しようとしました。一方でドイツ、オーストリアでは特殊な楽器奏法を用いた作品を書き、人間の内的な体験を表出しようとする「表現主義」と呼ばれる動きが起こりました。またこれらの傾向への反発や、急激な調性の崩壊に対する危機意識から「バッハに帰れ」を合言葉に、意識的にバロック時代の組曲などの形式を使用して古典的な形をとる「新古典主義」の音楽が作られるなど、20世紀の芸術音楽はそれまでにない多様性を生み出すことになりました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)

ラヴェル RAVEL, Maurice 年表

ラヴェル(RAVEL, Maurice)の人物像

ラヴェルはフランスのスペイン国境に近いシブールに、スイス人を父に、バスク系のフランス人を母に生まれた。

7歳の頃からピアノを始め、1889年に14歳でパリ音楽院に入学し、95年に一度音楽院を去るが97年に戻り、ジェダルジェに対位法を、フォーレに作曲を師事し、1905年まで在学した。

彼が音楽院に入学した1889年は、パリでエッフェル塔が完成し、万国博覧会が開かれた年で、ラヴェルは万博で異国の風俗、回教寺院、カンボジアの寺院、タヒチの踊り、シナの塔、ジャワのガムラン音楽などに接して大きな刺激を受けた。

彼のピアノ連弾曲「マ・メール・ロワ」(10年)から、この頃の影響がはっきりうかがえる。

ラヴェルの生涯は、1901年から3回にわたって挑戦したローマ大賞獲得の失敗以外は、むしろ平穏であった。

この件は、後に公正に審査をしなかった審査員に問題があるということでパリ音楽院では大問題に発展した。

しかし師のフォーレは失意のラヴェルをかばい、はげましたという。

なぜかというと、ラヴェルはそれ以前に、サティの影響を受けて書いたピアノ曲「グロテスクなセレナード」(93年頃)、「古風なメヌエット」(95年)、「亡き女王のためのパヴァーヌ」(99年)、「水の戯れ」(01年)、「弦楽四重奏曲 ヘ長調」」(03年)などで新鋭作曲家として頭角を現わしており、99年には序曲「シェエラザード」を自らの指揮で初演するなど、ローマ大賞の件は彼の作曲家としての未来に全く影響がなかったからだといえよう。

ラヴェルは12年にディアギレフのロシアバレー団の依頼で書いたバレー音楽「ダフニスとクロエ」が大成功を収め、作曲家としての名声を確実なものにしたが、彼は同じ頃、同じくディアギレフとバレー音楽を書いていたストラヴィンスキーと交遊を始め、パリの酒場"屋根上の牡牛"で"6人組"(ロマン主義や印象主義に反発し、サティの冷静で鋭い風刺や素朴さと、詩人/劇作家ジャン・コクトーの精神性に傾倒するミヨー、オネゲール、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールら)、ストラヴィンスキー、若い前衛作曲家、芸術家たちとアメリカからきたジャズ・バンドを楽しんでいたという。

ラヴェルはドビュッシーと並ぶフランス印象派の作曲家だが、彼の音楽はドビュッシーに比べると、古典派的な構成で、より明確な響きになっている。

また、彼のバレー音楽「ボレロ」(28年)などに見られる管弦楽の手法は卓越しており、ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」の管弦楽曲編曲は見事である。

ラヴェルは交響曲を除いた広い分野に作品を残しており、ピアノ曲では「ソナティナ」(05年)、「鏡」(05年)、「夜のガスパール」(08年)と、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、ヴィトゲンシュタインのために書いた「左手のためのピアノ協奏曲」(30年)と「ピアノ協奏曲 ト長調」(31年)などが有名である。

(出典:ピアノレパートリーガイド

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