トップページ > フォーレ(FAURE, Gabriel-Urbain)
「近・現代」様式では、作曲家たちはさらに自由で実験的な作品を発表するようになりました。20世紀を迎え、社会情勢の変化や科学技術の発達に伴い、これまでになかった響きや斬新な表現を求められたのです。これまでの「ロマン主義」の直接的で力強い表出性を持つ表現に対し、ドビュッシーらによる「印象主義」の作曲家は、ほのめかすような控えめな表現を特徴とし、光や風などのイメージの世界を表現しようとしました。一方でドイツ、オーストリアでは特殊な楽器奏法を用いた作品を書き、人間の内的な体験を表出しようとする「表現主義」と呼ばれる動きが起こりました。またこれらの傾向への反発や、急激な調性の崩壊に対する危機意識から「バッハに帰れ」を合言葉に、意識的にバロック時代の組曲などの形式を使用して古典的な形をとる「新古典主義」の音楽が作られるなど、20世紀の芸術音楽はそれまでにない多様性を生み出すことになりました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)
フォーレは幼少から楽才を示し、1854年、9才のとき特待生としてニデルメイェール(宗教)音楽学校に入学、ニデルメイェール校長について中世~ルネッサンス時代の宗教音楽を学び、バッハ、ヘンデルの音楽に親しんだ。
60年からは同校でサン=サーンスにピアノを師事し、彼らは師弟を越えた友情で結ばれるようになる。
フォーレは65年に卒業した後、パリ近郊の教会のオルガニストを経て、77年にマドレーヌ大聖堂の合唱長に就任した(ちなみにサン=サーンスは77年まで同聖堂のオルガニストだった)。
また、フォーレは在学中から作曲をしていたが、77年には「ヴァイオリン・ソナタ 第1番 Op.13」(76年)がパリの博覧会で初演され、その後、フォーレは作曲にはげみ、劇場音楽、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲、歌曲、など多くの作品を書いた。
特筆すべきものに「レクイエム Op.48」(87年)がある。
96年にはマドレーヌ大聖堂の首席オルガニストに就任、同年、パリ音楽院の作曲科教授に就任、05年に同音楽院の院長になる。
20年に聴覚が失われて音楽院長を辞任したが、フォーレはその後も作曲にはげみ、22年に「チェロ・ソナタ 第2番 Op.117」「歌曲集"幻想の水平線"Op.118」を作曲し、23年に弦楽四重奏曲に着手し、24年の夏に完成して、その秋に他界した。
パリ音楽院時代はラヴェル、カセッラ、ナディア・ブーランジェらを教えている。
フォーレの音楽は優雅で洗練されたフランスのエスプリに富んでおり、ピアノ曲は即興曲、バルカロール、ノクターンなどショパン風の題材が多いが、曲中にオルガンの影響が聴かれ、殆どの部分が美しい主旋律の多声部音楽になっている。
(出典:ピアノレパートリーガイド)