トップページ > ファリャ(FALLA, Manuel de)
「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)
ファリャは20世紀前半のスペインの代表的作曲家である。
ファリャはピアニストだった母からピアノの手ほどきを受けマドリードの有名な音楽教師ホセ・トラゴ(1856~1934)にピアノを習い、1901年からはスペイン民族音楽の祖ペドレルに師事して16世紀スペインの教会音楽や、民族音楽、サルスエラ(スペインの国民的オペラ)を学んだ。
その後、パリに勉強に行く費用を捻出するためにサルスエラを数曲書き、05年作のサルスエラ「はかない人生」がマドリード芸術院の歌劇賞に入賞し、また同年、ピアノ・コンクールに優勝してファリャは作曲家、ピアニストとして認められ、07年には念願のパリに行き、7年間滞在した。
パリではデューカス、ドビュッシー、ラヴェルらと親交を持ち、またパリに滞在していたスペインの作曲家アルベニスと交友を結び大きな影響を受けた。
その後、パリのオペラ・コミックで「はかない人生」が成功を収め、パリ時代から作曲にかかっていたピアノと管弦楽のための「スペインの庭の夜」が大成功し、21年にはロンドンを訪れ「スペインの庭の夜」のピアノ・パートをファリャ自身で弾くなどして、音楽家としてのゆるぎない名声を築いた。
この年からファリャはグラナダに住み、パリ、ロンドンもしばしば訪れて活躍したが、34年頃から健康がすぐれず、39年にスペインを後にしてアルゼンチンに渡り、その地で69歳の生涯を閉じた。
作品にはサルスエラ、管弦楽曲、歌曲、ピアノ曲などがある。
(出典:ピアノレパートリーガイド)