トップページ > ハイドン(HAYDN, Franz Joseph)
「古典派」とは、バロック様式の後をうけて西ヨーロッパを中心に各地に展開した新しい様式です。器楽音楽の抽象性・絶対性が重視され、バロック時代に器楽よりも優位にあった声楽は器楽にその地位を譲るようになります。18世紀前半から次第に音楽の中心は宮廷や貴族の邸宅から公開演奏会へ移って行きました。この時代「ソナタ形式」が確立し、ピアノをはじめ、ヴァイオリン、チェロの他、オーケストラのためのソナタ、すなわち交響曲や協奏曲などソナタが数多く作られました。この時代の代表的な作曲家としては、主にウィーンで活躍した「ウィーン古典派」のハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンがあげられるでしょう。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)
ハイドンはウィーン古典派の中心人物の1人であり、彼はマンハイム派のシュタミッツ(1717~57)、ウィーンのヴァーゲンザイル(1715~77)、エマヌエル・バッハ(1714~88)らによって開拓途上にあった交響曲を"ソナタ形式"の交響曲に完成させた。
(シュタミッツらはバロック期の楽曲の"急-緩-急"の概念に始まった3楽章の素朴な交響曲を書いていた)また、ハイドンはタルティーニ(1692~1770)や、サマルティーニ(1701~75)によって書かれていた弦楽器曲を弦楽四重奏曲に完成させたことで有名である。
車大工の家に生まれたハイドンは、1736年に6歳で学校長と教会合唱長をしていた親戚にあずけられて音楽教育を受けた。
そして、8歳のときにその才能が認められ聖シュテファン教会の独唱者になり、変声期まで活躍した。
その後、独りで作曲を学んだハイドンはイタリア人の作曲家ポルポラに師事しながら徐々に作曲家として認められるようになり、59年にボヘミアのモルツィン伯家の楽師長となり、61年からハンガリーの貴族エステルハージィ家の副楽師長に就任、66年に楽師長に昇格し、以降30年もこの職にあって演奏と作曲にはげんだ。
ハイドンは約100曲以上の交響曲、80曲以上の弦楽四重奏曲、52曲のピアノ・ソナタの他に、管弦楽曲、協奏曲、オラトリオ、カンタータ、ミサ、オペラ、独唱曲などを書いている。
彼の作風は健康な感じで力強く、庶民的なのが特徴である。
また、ハイドンは生前、モーツァルトと親交があり、ベートーヴェンはボンからウィーンにハイドンを訪ねて教えを受けている。
(出典:ピアノレパートリーガイド)