トップページ > チャイコフスキー(TCHAIKOVSKY, Pytr Il'ich)
「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)
バレー音楽「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」で世界的に有名なチャイコフスキーはロシアのウラル地方の鉱山監督の家に生まれた。
やがて家族がペテルブルクに移住すると、チャイコフスキーは1850年に法律学校に入学し、卒業後は法務省の官吏となった。
しかし音楽好きのチャイコフスキーは、61年からアントン・ルビンシュタインが設立した音楽教室(翌年、ペテルブルク音楽院に昇格)で作曲を学ぶ。
その間、63年には法務省をやめて、66年にペテルブルク音楽院の第1回卒業生となり、66~78年はモスクワ音楽院(当時はアントン・ルビンシュタインの弟のニコライ・ルビンシュタインが開設したモスクワ音楽教室であった)の教授を務めた。
69年に管弦楽曲の幻想的序曲「ロメオとジュリエット」(第1稿)が発表されると、チャイコフスキーは作曲家としての名声を博す。
その後、チャイコフスキーはスイス、イタリア、フランスで生活することが多く、76年からの13年間はロシアの富豪の未亡人フォン・メック夫人の経済的援助を得て作曲に専心した。
チャイコフスキーはオペラ、バレー音楽、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、声楽曲など、あらゆるジャンルに多くの大作を残している。
チャイコフスキーの音楽は旋律の美しさとオーケストレーションで知られているが、アントン・ルビンシュタインから受けたドイツ・ロマン派の影響と、ロシア国民楽派バラキレフらの影響が融合して新しい境地を作っている。
ピアノの代表作は「協奏曲 第1番 変ロ長調」(75年)であり、12曲から成る12ヵ月の性格描写をした「四季 Op.37」(76年)は独奏曲の傑作であり、「子供のアルバム Op.39」はピアノ教材として重要視されている。
(出典:ピアノレパートリーガイド)