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「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)
ブラームスは貧しいホルンとコントラバス奏者の家に生まれ、父から音楽の手ほどきを受け、7歳から正規にピアノを学んだ。
14~16歳の頃はハンブルクの港街でバンドの演奏をして家計を助けていたが、音楽好きなブラームスは作曲も始めており、1853年に友人ヨアヒム(ヴァイオリニスト)のすすめでデュッセルドルフにシューマンを訪れた。
シューマンはブラームスの才能を即座に見抜き、彼が創刊した「音楽新報」(Neue Zeitschrift fur Musik)にブラームスの作品を称賛して書き、彼らは深い友情で結ばれるようになった。
しかしそれも束の間、シューマンはその翌年から精神病に冒され、56年に他界する。
その後、なにくれとなくシューマン一家の面倒を見ていたブラームスはシューマンの妻のクララ(ピアニスト)と恋におちいったかのよう見えたが、結局、結婚するには至らず、やがて2人は別の道を歩くようになった。
それからのブラームスはハンブルグ、デトモルト、ウイーンなどを移り住み、教師、演奏家、指揮者をしながら作曲にはげみ、「ピアノ協奏曲 第1番 Op.15」や「交響曲 第1番 Op.68」などの大作を書く。
65年の母親の死を機に書いた「ドイツ鎮魂曲 Op.45」(68年)は大成功を収め、ブラームスは更に精力的に作曲をする一方、ハンガリー、スイス、デンマーク、オランダ、イタリアまで演奏のため足をのばし88年頃からのブラームスは、シューマンの作品全集出版の仕事をしていたクララを手伝い、彼女と旧交を暖めていたが、96年の春、クララは脳卒中で倒れ、5月に起こった2回目の発作で彼女は息をひきとった。
ブラームスはその5月に入ってからクララの死を予期し、聖書をもとに「4つの厳粛な歌 Op.121」を書いている。
同年、クララの死で疲れ果てたブラームスは彼自身、病魔に倒れ、「11のコラール前奏曲」の終曲に"おお世よ、私はお前から去らねばならない"という歌詞を残して97年4月に他界した。
ブラームスは交響曲、室内楽曲、協奏曲、ピアノ曲、宗教曲、歌曲などに多くの作品を残している。
彼の作風は、内向的、悲劇的、かつ重厚で、同期のリストやワーグナーとは異なり、保守的で明確な調性が感じられる点などで、新古典派とも呼ばれている。
(出典:ピアノレパートリーガイド)