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トップページ > ベートーヴェン(BEETHOVEN, Ludwig van)
「古典派」とは、バロック様式の後をうけて西ヨーロッパを中心に各地に展開した新しい様式です。器楽音楽の抽象性・絶対性が重視され、バロック時代に器楽よりも優位にあった声楽は器楽にその地位を譲るようになります。18世紀前半から次第に音楽の中心は宮廷や貴族の邸宅から公開演奏会へ移って行きました。この時代「ソナタ形式」が確立し、ピアノをはじめ、ヴァイオリン、チェロの他、オーケストラのためのソナタ、すなわち交響曲や協奏曲などソナタが数多く作られました。この時代の代表的な作曲家としては、主にウィーンで活躍した「ウィーン古典派」のハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンがあげられるでしょう。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史)
音楽家の家系に生まれたベートーヴェンは幼少から楽才を発揮し、1782年に12歳で作曲を師事していたボンの宮廷オルガニスト、ネーフェの助手となった。
その当時、作曲したピアノ・ソナタはケルンの選帝侯に捧げられ「選帝侯ソナタ」として83年に出版されている。
ベートーヴェンは間もなくネーフェの後を継いで宮廷オルガニストに昇格した。
92年からは貴族ヴァルトシュタイン伯の尽力でウィーンに行き、ハイドンやサリエリに師事し、以後はウィーンで多くの貴族たちの支持を受け作曲と演奏にはげんだ。
(ウィーンではそれ以前にモーツァルトにピアノを聴いてもらったことがある)彼はウィーンで出会った貴族のうちルードルフ大公(後に大司教となる)とは生涯、親交を結び、多くの曲を捧げた。
それらのごく一部は「ピアノ協奏曲 第4番 Op.58」、ピアノ・ソナタ「"告別"Op.81a」(1楽章は1809年5月のフランス軍の侵略でウィーンを去った大公への別れ、2楽章は大公との淋しい離別期間、3楽章は10月にウィーンに戻った大公との再会の喜びになっている)、ピアノ・トリオ「"大公" Op.97」などで、晩年の大作「荘厳ミサ」は大公の大司教就任を祝って書かれた作品である。
1800年頃からのベートーヴェンはすでに病んでいた耳がおもわしくなく、療養も兼ねて夏はハイリゲンシュタットの田舎で過ごすようになった。
この頃に書かれたのが2人の弟に宛てられたという"ハイリゲンシュタットの遺書"である。
しかし、彼は創作を続けており、当時の作品にはのどかな田舎を描いた「交響曲 "田園"」(08年)がある。
耳の病は10年にはかなり進行し、19年に完全に耳が聴こえなくなったが、ベートーヴェンは晩年に古典期からロマン期へ橋渡しをする大きな作品をあらゆるジャンルに書き、27年に56歳で他界した。
ベートーヴェンの作品は一般に、初期、中期,後期の3期に分けて捉えられ、ピアノ・ソナタでは─初期:ハイドン、モーツァルトの影響が見られるOp.2~Op.22まで。
中期:独自のスタイルを開発した時期で各作品に異なる味わいが出ているOp.26(1楽章が“ヴァリエーション”のソナタ)~Op.90まで。
後期:幻想的で詩的な要素が加わったロマン思想を先取りしたベートーヴェン最後の時期で各作品とも“フーガ”のセクションが含まれているOp.101~Op.111まで─とされる。
(出典:ピアノレパートリーガイド)