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リスト(LISZT, Franz(Ferenc))

生年月日:

1811/10/22

没年月日:

1886/07/31

享年(満年齢):

74歳

出身地:

ハンガリー

性別:

星座:

てんびん座

音楽様式:

ロマン派(19世紀~20世紀初頭)

「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)

リスト LISZT, Franz(Ferenc) 年表

リスト(LISZT, Franz(Ferenc))の人物像

リストは19世紀最高のヴィルチュオーソ・ピアニストであり、作曲においては新しく交響詩のジャンルを創始した。

父はハンガリーの貴族エステルハージィ侯に仕え、宮廷管弦楽団でチェロを弾いていた。

5歳からピアノを始め、8歳で作曲を始めたリストは、9歳のとき開いた演奏会で鬼才ぶりを発揮し、1820年からウィーンに出てベートーヴェンの弟子だったツェルニーにピアノを師事し、サリエリから作曲を学んだ。

その後、23年からパリに移り、パリ音楽院入学を試みたが外国人という理由で校長のケルビーニに入試を拒否され、音楽院はあきらめ、作曲をF.パエール、A.ライヒャに学んだ。

リストは24年3月にパリでピアニストとしてデビューしたが、たちまち大成功を収め、その名はイギリスまで伝わり、以後、リストはヴィルチュオーソ・ピアニストとしてヨーロッパ各地を演奏して廻った。

35年からパリの才媛ダグー伯爵夫人と同棲し、その間にできた次女コジマは後にワーグナー夫人となる。

ちなみにパリの社交界でショパンにジョルジュ・サンドを紹介したのはリストであった。

その後、リストはダグー伯爵夫人と別れ、44年に祖国ハンガリーに戻りブダペストで演奏会を開いたが、一般の市民からも熱狂的な歓迎を受け、まるで凱旋将軍のようであったという。

続いて約10年の演奏旅行が始まるが、ベルリンでの人気は言語を絶するものといわれ、ヴィルヘルム皇帝はリストの全演奏会に臨席した。

47年のウクライナ演奏旅行でリストはザイン・ヴィトケンシュタイン侯爵夫人と出会い、親交を結ぶようになり、2人は48年にワイマールに住居を定め、リストは指揮者/作曲家として活動した。

その後、リストはヴィトケンシュタイン侯爵夫人との結婚を決め、61年に侯爵夫人は必要な離婚承認の手続きのためローマに教皇を尋ねるが、夫人側の親戚からの異義申し立てで、手続きは目前で崩れ、2人はすべてを断念し、リストは僧院に身を沈めた。

ピアノ曲「システィナ礼拝堂で」(62年作)、「伝説"小鳥に語るアッシジの聖フランシス""波をわたるパオラの聖フランシス"」など宗教色の強い作品はこの時代に書かれている。

しかし、しばらくするとワイマールからリストに復帰を求める声が高まり、彼は69年にワイマールに戻り、晩年は世界から集まる若きピアニストたちに囲まれて世を送った。

86年にリストはバイロイトにいる娘、コジマ・ワーグナーに会いに行き、肺炎にかかってバイロイトで客死した。

リストは広い分野に多くの作品を残しているが、ピアノでは2つの「協奏曲」、「ピアノ・ソナタ」、19曲の「ハンガリー狂詩曲」、「超絶技巧練習曲集」などが名曲であろう。

またリストはピアノ用の"改編曲"でも知られている。

(出典:ピアノレパートリーガイド

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