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ショパン(CHOPIN, Frederic-Francois)

生年月日:

1810/03/01

没年月日:

1849/10/17

享年(満年齢):

39歳

出身地:

ポーランド

性別:

星座:

うお座

音楽様式:

ロマン派(19世紀~20世紀初頭)

「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)

ショパン CHOPIN, Frederic-Francois 年表

ショパン(CHOPIN, Frederic-Francois)の人物像

ショパンはロマン期のピアノ音楽に新しい境地(ノクターン、プレリュード、ワルツ、マズルカ、ポロネーズ、バラード、アンプロンプチュ、ファンタジー、etc.)を開いたポーランドの作曲家/ピアニストである。

ショパンはワルシャワ近郊に、フランス人を父に、ポーランド人を母に生まれた。

4歳からピアノを始め、7歳で「ポロネーズ (第11番)ト短調」を作曲し、8歳のとき公の演奏会でギロヴェツの「ピアノ協奏曲」を弾いて聴衆からモーツァルトの再来と騒がれ、11歳のときにワルシャワを訪れていたロシア皇帝アレキサンドル一世に御前演奏をした。

1822年に12歳でワルシャワ音楽院長のエルスナーについて作曲を学んだショパンは、その後、作曲にはげみ、25年には「ロンド Op.1」が出版され、作曲家/ピアニストとしての成功を収める。

彼の作品は、室内楽、ピアノ協奏曲、歌曲を除いては、殆どがピアノ・ソロである。

ショパンは29年に一度ウィーンに演奏旅行をしたが、30年にワルシャワでポーランドの独立運動が起きると、その秋にワルシャワを去り、再びウィーンを訪れ、シュトゥットガルトを経て、31年にパリに到着した。

彼の「エチュード"革命"」(32年)はシュトゥットガルトでワルシャワがロシア軍に鎮圧されたことを耳にしたショパンが憤りを込めて書いた作品だといわれている。

パリにおけるショパンは演奏活動と作曲にはげむ一方、多くの貴族の子女たちにピアノを教えて余裕のある生活をした。

またショパンはリスト、シューマン、ベルリオーズ、ユーゴー、ハイネ、ドラクロワら新ロマン派の芸術家たちと親交を結んだが、36年にリストの紹介で出会った"男装の麗人"として有名な女性作家ジョルジュ・サンドと恋愛関係に陥る。

そして、すでに結核に冒されていたショパンは療養をかねてサンドと38~9年をスペインのマジョルカ島で過ごし、その後は彼女のノアンの田舎の家とパリを行き来したが、結局、結核が進行し、49年に39歳の短い生涯を閉じた。

彼の作風はポロネーズ、マズルカなどポーランド的な要素とパリの華麗で洗練された要素が特徴で、作品のすべてが傑作であることは言うまでもない。

(出典:ピアノレパートリーガイド

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