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ドヴォルザーク(DVORAK, Antonin)

生年月日:

1841/09/08

没年月日:

1904/05/01

享年(満年齢):

62歳

出身地:

チェコ

性別:

星座:

おとめ座

音楽様式:

ロマン派(19世紀~20世紀初頭)

「ロマン派」とは、「古典主義」への反動として形式にとらわれない様式です。個人の感情や考え、夢や憧れなどを自由に表現しようとした標題音楽が人気となり、多くの小品が作曲されました。一方で、標題も歌詞ももたず純粋な器楽曲として発想された作品こそが最高であるという「絶対音楽」を唱える人たちも現れました。また、革命と戦争の時代であった19世紀は、それぞれの国における固有の民族性に価値が見出されるようになり、作品に自分の生まれた地域に伝わる地方色を取り入れた、芸術性の高い作品を作る「国民主義」の流れも生まれました。この時代には多くの作曲家が現れましたが、器楽の優れた演奏家が現れ、高度な演奏技巧を披露するためのヴィルトゥオーソ的な楽曲も多数作られました。それに加え楽譜印刷も一般化されたことから、作曲家と演奏家の分業がすすみました。
(参考書籍:大人の音楽史入門、よくわかる!西洋音楽史、やさしく読める作曲家の物語)

ドヴォルザーク DVORAK, Antonin 年表

ドヴォルザーク(DVORAK, Antonin)の人物像

ドヴォルジャークはボヘミアのモルダウ河畔の肉屋兼宿屋の息子として生まれた。

ドヴォルジャークは幼少から楽才を発揮し、早くから父の宿屋や村のダンス・バンドでヴァイオリンを弾いており、家業を継がせようとした親も1857年に息子をプラハのオルガン学校に入学させた。

ドヴォルジャークはそこで在学中にベルリオーズ、リスト、ワーグナーらの音楽に接した。

62~72年はチェコ仮劇場(後のチェコ国民劇場で66年からスメタナが指揮者に就任)の管弦楽団でヴィオラを弾きながら作曲を試みたが、成功には程遠く、73年に民族的な題材を扱ったカンタータ「白山の後継者たち」で初めて作曲家として知られるようになった。

ドヴォルジャークは、初期の60年代の交響曲では長くて形式にこだわらないラプソディー風の旋律を使うなどワーグナーの影響が見られるが、70年代になるとスメタナのひきいる国民楽派の影響で民族を意識した「スラヴ狂詩曲」や「スラヴ舞曲」を書いている。

77年以降は、ブラームスに出会った影響で作風が端正な新古典派風になり、親交を持ったブラームスの紹介で作品を出版社ジムロックから出版して世界の注目を浴びるようになった。

彼はイギリスも9回訪問して彼の地でも名声を築いているが、92~95年はニューヨークのジャネット・サーバー女史の招待でナショナル音楽院の院長に就任し、この間に受けたアメリカの強い印象を描いたのが有名な「交響曲第9番"新世界から"Op.95」である。

ピアノ曲は「8つのユーモレスク」(94年)の"第7番 変ト長調"が世界の人々から愛されている。

(出典:ピアノレパートリーガイド

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