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フレディ・マーキュリー ~孤独な道化~

大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本にも影響を与えたレスリー・アン・ジョーンズによる、フレディ・マーキュリーの決定的伝記 フレディ・マーキュリー 孤独な道化 著者:レスリー・アン・ジョーンズ / 訳者:岩木 貴子

イントロダクション

このコンサートをやることで、僕たちは人々に観てもらい、聴いてもらい、うまくいけば募金してもらえるような、何かポジティブなことができる。
餓死しようとしている人々が世界にいるのだから、それは人類全体の問題としてとらえるべきだ。時に自分は無力だと感じることもある。
でも、今回は僕にもできることがある。
フレディ・マーキュリー

フレディ・マーキュリーにとっては完璧なステージだった。つまり、全世界だ。
ボブ・ゲルドフ

政治家が巧妙な演説家だった時代もある。今世紀に入って、演説という芸術はすっかり衰退した。
個人や集団が観衆を思いのままに操り、声ひとつで何千人もの群衆を支配することができる職業は
もはやほとんど残っていないが、その数少ないひとつが、今ではこともあろうにロックンロールなのだ。
これは、映画俳優にはできない業だ。テレビスターでは到底及びもつかない。
とすると、ロックのスーパースターは、この現代で絶大な影響力を持つ最後の人種と言えるのかもしれない。

(第1章:ライヴ・エイド 冒頭より)

商品概要

フレディ・マーキュリー 孤独な道化

フレディ・マーキュリー ~孤独な道化~

映画『ボヘミアン・ラプソディ』脚本家ピーター・モーガンの脚本コンサルタントとして活躍する伝記作家が描く、フレディ・マーキュリーの「真実」。

商品コード:GTB01088190
著者:レスリー・アン・ジョーンズ
訳者:岩木 貴子

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著者紹介

レスリー・アン・ジョーンズ

レスリー・アン・ジョーンズ ジャーナリスト、新聞のコラムニスト、TVキャスター。音楽・メディア業界で30年以上の実績を持つ。記者としてクイーンをはじめ、ポール・マッカートニーやデヴィッド・ボウイなど数々のミュージシャンに同行した。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本家、ピーター・モーガンは、脚本執筆にあたってレスリー・アン・ジョーンズをコンサルタントとして雇っている。

著者からのコメント

  • 日本語
  • 英語

日本のロックファンの皆様、こんにちは

「フレディ・マーキュリー~孤独な道化~」を読んでいただきありがとうございます。

この本は私の個人的な敬意をフレディへと捧げたものであり、最高の仕事でした。どんな本でもそうなのですが、この本を書くことが容易いことだったとは言えません。とはいえ、この仕事をすることは名誉なことであり、それが日本語に翻訳されることはとても光栄なことです。

今、フレディの時代について振り返ると、スリリングな映画のその中で、私はささやかな役を演じていたように感じます。もう二度と演じられない役をね。

私が彼に会ったのは、まだ駆け出しのジャーナリストだったころです。

イギリスの全国紙に雇われ、彼とギタリストのブライアン・メイにインタビューするためにウエスト・ロンドンにある彼らの事務所に送り込まれました。そこで私たちは意気投合し、彼らは私を夕食に誘ってくれたのです。

その1~2週間後、私は彼らからドイツに同行しないかと誘われました。彼らのリムジンに乗り、一緒の飛行機でフライトをし、同じホテルに滞在し、そして彼らの演奏をステージサイドから見ました。

今となっては決して生まれないであろう友好関係でした。

それはなぜか? 当時はまだインターネットはありませんでしたし、携帯電話さえありませんでした。有名人にインタビューするためなら世界中どこへでも出かけて行き、ポータブルレコーダーのカセットテープに会話を録音しました。

その当時はマネージャーやエージェント、広報担当に干渉されなかったのです。それらの職業はまだ生まれたばかりで、現在のような力を持っていませんでした。もしアーティストがジャーナリストのことを気に入り、信用し、そして親交を深めたいと望めば、思う通りにできたのです。

近頃ではセレブがメディアと親しくすることはまずないですからね。

私が知っていたフレディには、彼が決して話そうとしなかったガールフレンドのメアリー・オースティンのことや、厳格で信仰深い両親のことなど、エキゾチックなバックグランドがありました。

バンドのツアー中には、彼は他のメンバーやクルーとは別のホテルに泊まり、別の人たちとの時間を過ごしていました。

彼がツアーから引退した1986年以降から1991年の死に至るまで、さらに、彼の死後、私が彼についての最初の本執筆のために調査していた5年間の時間をかけて、ようやく私は“フレディ・マーキュリーが本当は何者であったか”を発見し始めたのでした。

フレディは“スパイス・アイランド”とも呼ばれる東アフリカのザンジバルで生まれました。彼の実家である、海を望むストーン・タウンの集合住宅で18歳までを過ごしました。

父親のボミ・バルサラはイギリス政府高等法院の出納係でした。両親ともイギリス人でしたが、パールシー(紀元前6世紀初頭まで遡る、ペルシャのゾロアスター教の末裔)でした。

彼は8歳の時、インドの英国寄宿制学校に入れられ、その後、両親に会うのは1年に一度だけでした。

彼はインドで10年近くを過ごし、その間に自分の名前を“ファルーク”から“フレディ”に変えました。彼のインド時代は生活が厳しく、そう易々と実家に帰ったり電話を掛けることはできませんでした。両親と離れて暮らすという、耐え続けた不安感は後々まで彼に影響を及ぼしました。

そして彼はその後の人生で、極度の愛情と親密さを求めて複雑な人間関係に陥り、自分のアイデンティティを混乱させていくことになるのです。

1950年代後半から60年代前半にかけて東洋と西洋の文化交流が盛んになり、インドでも西洋のポップスが受容されました。クラシックを愛していた彼は、ブギウギ(boogie-woogie)のピアノ演奏を習得し、最初のバンド、”ザ・ヘクティクス”を結成しました。女子校やローカルなお祭りなどで演奏し、すぐに熱烈なファンを獲得しました。

フレディは彼が崇める、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、エルヴィス・プレスリーらのスタイルを熱心に模倣しました。彼が音楽に熱中すればするほど、学業はおろそかになっていきます。クイーンの初期のバイオグラフィーには、彼は資格を取得してセント・ピーターズ校を去ったとありますが、学校の記録簿を見せていただいたところ、それは正しくありませんでした。

なぜ彼は嘘をついたのでしょうか? それは他のメンバーたちが一流の学歴だったからでした。

1964年、ザンジバルで激しい革命が起き、何千もの人々が市街戦で命を落としました。バルサラ家も他の多くの家族同様、文字通り命からがらに脱出し親戚の住むイギリスへと逃げ延びたのです。フレディは二度とインドにもザンジバルにも戻りませんでした。彼は両地のことを記憶から消し去ったのです。

彼は外見を変え、髪を伸ばし、スウェードのレザージャケット、花柄のシルクシャツ、風変わりなアンクルブーツを身に着けました。彼のアイドルだったジミ・ヘンドリックスのスタイルです。彼はアートスクールに通い、卒業しました。

しかし彼はアートスクールで修了したこととは違うアーティストになるべく運命づけられていたのです。

当時のロンドンは若者文化のメッカとして全盛期でした。ファッションと音楽がブームになり、モッズたちのカーナビー・ストリートは世界の流行の最先端でした。彼はインスピレーションを得て、自分の進む道はバンドであることを見出しました。“レックリッジ”“スマイル”を経て“クイーン”へと――。

1974年、彼の失われたザンジバルでの子供時代を想起させるクイーンの曲「輝ける7つの海(Seven Seas of Rhye)」がヒットしました。

そのちょうど1年後に彼らは東京に降り立ちます。クイーンが最初のツアーで日本に到着した際、待ちに待った熱狂的なファンの大群に彼がどれだけ虚をつかれたかを、彼は親愛の情を込めて話してくれたものです。3,000以上のファンが羽田空港の到着ロビーに殺到し、多くのファンが手作りの横断幕とクイーンのレコードを振りかざしていました。アルバム『シアー・ハート・アタック』とシングル「キラー・クイーン」は双方とも日本のチャートで1位を獲得しました。

フレディはそのチャンスを見事に掴んだのです。彼はその後すぐに日本の磁器、着物、絵画、他の芸術作品の熱心なコレクターになりました。彼の私的なアシスタントだったピーター・フリーストーンは、日本はフレディが観光で何回も訪れる世界でたったひとつの国だった、と後に語ってくれました。

彼は日本と日本の文化・伝統を敬っていました。そしてその愛情は生涯ずっと続いたのです。

クイーンとフレディ・マーキュリーは、今回の大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』によって、彼が生きていた頃よりも、日本に限らず世界中で大きな影響を与えています。彼が亡くなって約30年経ちました。私には、彼がかつてないほど輝いているように思えるのです。

レスリー・アン・ジョーンズ, 2019

Hello, dear rock fan in Japan,

Thank you for reading this book. It is my personal homage to Freddie, and was a labour of love. I cannot say that it was easy. Writing books never is. It was a privilege to work on, however, and I am honoured to see it translated into your language. When I think of the Freddie years now, they feel like a thrilling film in which I played a small part. A part that I will never play again.

I was a young journalist when I met him. Employed by a British national newspaper, I was sent to interview him and Queen guitarist Brian May in their West London offices. We hit it off, and they invited me to dinner. A week or two later, they asked me to accompany them to Germany. I rode in their limo, sat with them on the plane, stayed in their hotel, and watched their gig from the side of the stage. A friendship was struck in ways that would never happen today. Why not? We didn’t yet have the Internet. There were not even mobile ’phones. So we went everywhere: halfway across the world, at times, to interview a celebrity. We recorded the conversations on cassettes poked into portable tape machines. Back then, we didn't deal with managers, agents or publicists. Those professions were still in their infancy, and not the driving forces they are today. If artists liked us, trusted us, and wanted to hang out with us, they did so. Nowadays, celebrities are discouraged from fraternising with the media.

The Freddie I knew had an exotic background he never really spoke about, a girlfriend called Mary Austin, and strictly religious parents. When the band were on the road, he stayed in separate hotels from them and the crew, and kept different company and hours. Only after he retired from touring in 1986, in the years leading up to his death in 1991 and during the five years after that when I was researching my first book about him, did I begin to discover who he really was.

Freddie was born on the spice island of Zanzibar, East Africa. For the first eighteen years of his life, a Stone Town flat overlooking the sea was his home. His father Bomi was a cashier at the British Government’s High Court. Both parents were British subjects, and also Parsees: followers of the Zoroastrian religion, which dates back to early 6th Century BC Persia. They sent their son to an English boarding school in India at eight years of age, after which he saw them only once a year. He remained in India for nearly ten years. It was there that he changed his name from Farrokh to Freddie. He travelled there and back by ship, alone. There was not even the luxury of the telephone, to keep in touch with his family. The separation anxiety he endured would have far-reaching consequences. He would spend the rest of his life seeking extreme affection and closeness, indulging in complicated relationships and being confused about his identity.

During the late 1950s and early 1960s, a thriving East-meets-West culture allowed Western pop to take hold in India. Freddie, who loved classical music, took up boogie-woogie piano and formed his first band, the Hectics. They performed at girls' schools and local fetes, and soon amassed a lively following. Freddie practised hard to emulate the styles of Little Richard, Fats Domino and Elvis Presley, the stars he most admired. The more obsessed he became with music, the more his school grades slipped. Although early Queen biographies claimed that he had left St. Peter's with a string of qualifications, he did not. I've seen the school record books. Why did he lie about it? Because his fellow bandmates were academics. There was a violent revolution on Zanzibar in 1964. Thousands lost their lives in bloody street battles. The Bulsaras, like so many, literally ran for their lives to England, where they had relatives. Freddie never again returned to India or Zanzibar. He wiped those places from his memory. He changed his appearance, grew his hair long, took to wearing leather and suede jackets, satin, silk and floral shirts, and kinky ankle boots, in the style of his idol Jimi Hendrix. He attended art school and gained his diploma. But he was destined to become a different kind of artist.

London, the Mecca of youth culture, was by then in full swing. Fashion and music were booming. Carnaby Street was the Mod centre of the world. Immersed in inspiration, Freddie soon found his way into a band. He progressed from Wreckage to Smile to Queen. Their first hit ‘Seven Seas of Rhye’, recalling Freddie's lost childhood on Zanzibar, was in 1974. Just one year later, they landed in Tokyo. Freddie spoke with such affection about how unprepared Queen were for the ‘Beatlemania’ which awaited them when they arrived for their first tour of Japan. More than 3,000 fans crammed into the Arrivals hall of Haneda International airport, many of them brandishing homemade banners and Queen records. Their albums ‘Sheer Heart Attack’ and ‘Killer Queen’ were both at Number One in the Japanese charts. Freddie rose majestically to the occasion. He would soon become an avid collector of Japanese porcelain, kimonos, paintings and other works of art. His personal assistant Peter Freestone later told me that yours was the only country in the world in which Freddie became a classic tourist. He adored Japan, its traditions and culture. The love affair was to last for the rest of his life.

Thanks to their recent blockbuster movie ‘Bohemian Rhapsody’, the highest-grossing music biopic of all time, Queen and Freddie Mercury are bigger in Japan and around the world today than ever they were during his lifetime. He has been dead for nearly thirty years. To me, he seems more alive than ever.

Lesley-Ann Jones 2019

■ 著者、レスリー・アン・ジョーンズがフレディ・マーキュリーについて語る ※英語のみ(字幕なし)

Freddie Mercury: Bohemian Rhapsody
by Lesley-Ann Jones

Freddie Mercury: Relationships
by Lesley-Ann Jones

翻訳者紹介文/翻訳者コメント

『フレディ・マーキュリー~孤独の道化~』の初版が出版されたのは2012年の12月のことです。
その後、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒットもあり、2018年12月に緊急復刊。
今回、書籍の復刊に合わせ、翻訳家の岩木貴子さんにコメントを寄せていただきました。

翻訳の仕事に対してはいつもどの作品も全力投球ではあるのですが、フレディの本は私にとって特に思い入れがあります。
お恥ずかしながら、泣きながら訳したのはこの本だけです。フレディのことを思うと胸が張り裂けそうで、
号泣のあまり仕事にならなかったくだりもあります。後半部分は祈るような思いで訳していました。
「あなたは愛されているんだよ」、「どうか幸せになって」とフレディに語りかけながら。
もうとっくの昔に亡くなっているのに。そんな経験は後にも先にもこの作品だけです。
実は、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観たらまったく同じことをメアリーが言っていたので
(「あなたは愛されているのよ」)、このときのことを思い出しました。

まったくの私事で恐縮ですが、その作品が今こうして再び日の目を見ていると知ったら、
フレディファンだった今は亡き母もさぞかし喜ぶことだろうと思わずにはいられません。
母はフレディが大好きで、ほかに有名人グッズは一切持っていなかったのですが、
QueenマグカップもQueen Tシャツも持っていたくらいです。
ミュージックビデオもよくひとりで観ていました。
特に“I Want To Break Free”のミュージックビデオが大のお気に入りで、
「ここで口の端を上げてニヤリとするの」と解説つきで何度も見せてくれたものです(ちなみに実家の番犬はフレディといいます)。

当時癌と闘っていた母を喜ばせることができて、『フレディ・マーキュリー』の翻訳を手がけることができた幸運に今でも心から感謝しております。
岩木貴子

【プロフィール】
岩木貴子(いわき・たかこ)

早稲田大学文学部、ダブリン大学文学部卒業。
訳書に『つながりすぎたグローバル経済』(オープンナレッジ)、『繊細で生きにくいあなたへ』(講談社)、『ダライ・ラマのビジネス入門』(マガジンハウス)、『大型商談を成約に導く「SPIN」営業術』(海と月社)、『人々の声が響き合うとき:熟議空間と民主主義』(早川書房)、『スティーヴン・タイラー自伝』『ミック・ジャガー~ワイルド・ライフ~』『本番に強くなる! ~演奏者の必勝メンタルトレーニング~』(すべてヤマハミュージックメディア)などがある。

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