コロナ禍で、ポーランドへ行けるの? 行けてもホールで聴けるの? と、直前まで本当に不安でしたが、願いが叶いました!! これまで1995年の第13回と2010年の第16回を現地で聴いていますが、1次予選を聴くのは今回が初めてです。予備予選のライブ配信からもレベルの高さはある程度予想していましたが、1次予選とは思えない演奏ばかりで、しかも様々な個性があり、コンクールというピリピリ感もなく、面白くてとても楽しめました。
コンクール会場であるワルシャワ・フィルハーモニー入り口
ホールで聴くコンテスタントたちの音楽
ホールで実際に耳にする演奏は、ライブ配信とはまったく違いました。空気の振動を感じる、風を感じる、身体が音に包まれる……文字にするとまるで嘘のようですが、演奏者によって音の包まれ方が違うのです。
例えば2位になった反田恭平さんの演奏は、圧倒的な音響でギュッと包まれるよう。彼にしか出せないであろう弱音でさえもギュッと来るのです。反田さんの演奏は1次予選から一貫して、聞こえてくる音も音楽も別次元の素晴らしいものでした。6年かけて体格も改造したとのこと、見事です。
セミファイナルまで進んだ角野隼斗さんの音は、優しく包まれてフワッとどこかに連れて行かれるような、そして何か物語を聴いているような感じがしました。髪型やお顔もまるでショパンのよう。『ピアノの森』のアニメで、演奏が始まるとピアノから客席にキラキラが飛んでいくような場面がたくさんありましたが、まさに会場ではそういうことが起こっていたのです。
出国直前に、ご縁あって隼斗さんのお母様、角野美智子先生とオンライン対談をしました。角野隼斗さんのお母様はヤマハから本も出されているピアノ指導者です。対談の場で「会場でお会いしましょう」と申したものの、実際の会場では人が多く、この中から探してお会いできるかどうか……。角野先生は2次予選からいらっしゃると伺っていたので、2次予選初日のモーニングセッション終了後にそろそろお見えになる頃?と考えながら階段を数段降りてふと隣を見ると、お隣もほぼ同時に見つめ合って、次の瞬間2人で「あら~っ!」。なんと角野先生だったのです。対談が結んでくださったご縁、ここでも奇跡的に出会えました。さっそく会場1階のロビーで一緒に記念撮影!
会場で隼斗さんのお母様、角野美智子先生と再会……いえ実は初対面!
演奏から窺える、今回のコンテスタントの版の選択と演奏への活かし方
ピアノを習っている方ならご存じの通り、ショパンの楽譜には様々な版があり、それらには細かい相違がたくさんあります。演奏や指導の時に、困った経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
ショパン・コンクールでは、2005年の第15回から、エキエル版(ナショナル・エディション)が推奨楽譜とされました。そしてエントリーシートには、使用する版を記入させます。今回は曲ごとに使用する版の記入が求められていたようです。
コンテスタントたちがどの版を使用しているかについては、一般には公開されていませんが、私は科研の研究目的で特別に2005年、2010年、2015年について調査しました。以前は世界的にもパデレフスキ版が圧倒的に多く使用されていて、2005年まではコンテスタントもパデレフスキ版を使う人が多かったものの、2010年にはパデレフスキ版とエキエル版が同じ位になり、2015年には完全に逆転したことが調査の結果わかりました。
今回のコンテスタントたちがどの版を選択したかは、演奏からその版に特有の音が聞こえてくることで推測することができます。音を聞いていると、今回もやはりエキエル版が多くなってきていると感じます。推奨版と言われると、それを使った方が有利なのでは、と思うのが人間の心理ですね。
でも面白かったのは、作品10-3のエチュード(有名な「別れの曲」)です。1次予選の課題とは別に作品10-3を弾いた人が2人いました。我々がよく知っているこの曲の中間部第30-31小節と第34-35小節は、「長調-短調」「長調-短調」※の繰り返しです。一方、エキエル版では同じ箇所が「長調-長調」「短調-短調」となっています。この箇所に関しては、レッスンで生徒に「音が違う」と注意しようとしたら楽譜にそう書かれていたので驚いた、とおっしゃる先生も多いようです。
資料研究をすると、ショパンがエキエル版のような音を書いていたのは確かで、我々が良く知る音になった経緯はとても複雑です。ショパンが最初に書いた音、印刷のもととなった自筆譜の音、フランス初版の校正で現れた音、ドイツ初版に現れた音、ショパンが弟子の楽譜に書き込んだ音、というように、それぞれに少しずつ変化があり、我々が聴き慣れている音は、それらが混ぜ合わされた音ということになります(詳しい経緯については拙著『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいの?』をご参照ください)。1870年代頃からそうなっていて、パデレフスキ版もこの音を採用しているわけですが、この箇所については校訂報告にコメントがあります。実はこの各版のコメントこそがそれぞれの版の命なのですが、ピアノを弾く人はあまり読まないので、エキエル版でメインの楽譜に現れた音に皆ビックリしたわけです。
しかし今回、エキエル版の音が多く聞こえてくる中で、この箇所に関しては、演奏した2人ともがパデレフスキ版の音で弾いていました。そのうち1人は第6位入賞のジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ JJ Jun Li Bui(カナダ、17歳)です。別の曲になりますが、第5位のレオノーラ・アルメリーニ Leonara Armellini(イタリア、29歳)が2次予選で弾いたバラード第4番も、エキエル版の音ではなかったです。
つまり、単にエキエル版がこの音だから、ショパンが書いたのはこの音だからという理由でその音を弾くのではなく、自分でその音、その響きを確かめて、納得して、自分のものにして弾くことが大切だと思います。音が変わることによって、そのフレーズの表現、時には曲全体の表現が変わることもあります。版による違いを見つけたら「これぞショパン!」と、様々な表現を楽しみながら、自分の表現にしていけると良いですね。
※ユンファン・ヤン
https://youtu.be/BTRQ5N2t77Y
(1:56あたり)
ジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ
https://youtu.be/obAuSBYxSog
(2:32あたり)
選んだピアノを最大限生かした演奏
ステージ上には、スタインウェイ2台、ファツィオリ、ヤマハ、カワイ各1台、計5台のピアノが用意され、コンテスタントが試弾して選びます。自分が選んだピアノの特性をどう生かして、どう音を出して表現するか、特にファツィオリは演奏者による差が大きく出ていたように思います。1次予選の時からファツィオリを弾きこなしていたのが、ブルース・リウ Bruce Xiaoyu Liu(カナダ、24歳、第1位)と、レオノーラ・アルメリーニ(前述)でした。
しかし、私が1次予選で、最もピアノの特性を生かした素晴らしい演奏だと思ったのは、ヤマハを使用した京増修史さんでした。弱音を生かした1曲目のノクターンop.62-2から、2曲目エチュードop.10-1への転換は見事で、音が綺麗で良く鳴っており、3曲目のエチュードop.25-6は幻想的に始まるという、音質音量ともに存分に楽しませてもらいました。ですので、2次予選での演奏をとても楽しみにしていました。
京増さんの演奏前、ピアノの入れ替えをしているときに、客席の周りから「スシ」と聞こえてきました。1度ならず何回も。はてさて、京増さんが日本人だから、皆さん日本と言えば「寿司」なの? あまりの飛躍に「?」が飛びましたが、わかりました! 京増さんの下のお名前を私は勝手に「しゅうじ」さん、と読んでいたのですが、本当は「しゅうし」さんだったのです。プログラムに記載された「Shushi」が、外国人の発音で私には「寿司」に聞こえてしまったという……食いしん坊な耳ですみません。さて、本題に戻って、2次での京増さんの演奏、音は綺麗だし安定感はあるし、実に誠実な演奏だったのですが、期待しすぎたのか、1次予選の時のようなワクワク感が感じられなくて残念でした。
多様な個性が認められた今回の審査
ショパン・コンクールでどのような演奏が審査員たちに受け入れられたのか、それによって、その時その時のショパンの演奏が方向づけられていくように思っています。例えば私が初めて現地で聴いた1995年、その時は今回の審査員の1人、フランスのジュジアーノが最高位(1位なしの2位)でした。それは本当に綺麗な、悪く言えば個性のない演奏でした。当時はロシア系の人たちが、内声を出す個性的な表現を多くやっていました。メロディーとは違う内声の音でメロディー的なつながりを聞かせるという演奏法です。今回は中国系の人たちにそういう表現が多く聞かれました。
今回は、それぞれの個性、多様な表現が認められたといえると思います。世界中のピアニストたちによる様々なショパンの解釈を耳にする事ができて、とても興味深かったです。例えば3位になったスペインのマルティン・ガルシア・ガルシア Martin Garcia Garciaの演奏は、私が会場で聴いた2次予選まではとにかく陽気な音楽で、大きな声で歌ったりして、その表情も姿もピアニストというよりコメディアンといった方がピッタリでした(ごめんなさい)。聴いている人を幸せにしてくれるのです。その陽気さがイタリアの楽器のファツィオリとよく合っていたと思います。聴衆からも拍手喝采を受けていました。しかし一方ではそういう演奏に対しての批判もあり、抗議も起こっていたそうです(飯田有抄さんのレポートを参照)。
ところが、ファイナルの演奏はというと、一転して超真面目、これがあのガルシア・ガルシア?というほどの変容ぶり。本当にきちんとした演奏で、その中にもあのガルシアがいる。もしファイナルに進まなかったらガルシアのこの演奏を聴くことができなかったと思うと、審査員たちは本当にすごいと思いました。そして見事コンチェルト賞に輝いたのです。
審査員席からステージを臨む 今回のようにレベルが高いと、ただ普通に上手で美しいだけではなく、何かのプラスα、例えば音楽の勢いとか、心に響くものがないと、次に進めないような状況でした。しかしそれは奇をてらったものではなく、自然な音楽、という感じでしょうか。19世紀の音楽の流れの中での表現ということになると思います。たとえて言うと、リンゴには赤色、黄色、緑色と様々な種類がありますが、リンゴなら何色でもOK、しかしそれがいちごやバナナやブドウになったら外れているという感じかと思います。つまり、今回はそのリンゴの中で、様々な色のものが認められたといえると思います。日本のピアニストたちも、それぞれ個性的な演奏で楽しませてくれました。毎日、それぞれのショパンの音、音楽に包まれて、エキサイティングで幸せな時間を過ごせました。感謝です。
ステージ前の筆者(写真左)。手にしているのは会場で配布される「Chopin Courier」。毎号コンテスタントたちが表紙を飾る(写真右)
岡部玲子(おかべ・れいこ)/ピアニスト・ショパン研究者 お茶の水女子大学ピアノ専攻卒、同大学院修士課程ピアノ専攻および博士課程修了、ショパンのエディション研究にて博士号取得、博士(学術)。元常磐大学教授、お茶の水女子大学非常勤講師。現在つくば国際短期大学非常勤講師。ピアノ演奏にて茨城県芸術祭特賞、コンセール・アミ奨励賞を受賞。リサイタル、協奏曲、室内楽等の演奏活動のほか、ピティナ・ピアノコンペティション等、各種ピアノコンクールの審査員を務める。2015年、茨城県の芸術文化発展に対する永年の功績に対して茨城県知事より感謝状贈呈。著書『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいの?~エディションの違いで読み解くショパンの音楽~』をはじめ、ショパンに関する執筆多数。