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リヒャルト・ワーグナー
Richard Wagner

リヒャルト・ワーグナー

1813~1883 ドイツ人 イタリアに没す ロマン期 作曲家

ワーグナーはドイツ・ロマン派の楽劇の最大の作曲家であり、彼は"オペラ"を音楽、文学、演劇、美術を一緒にした"総合芸術"として完成させた。また、作曲の手法に、ベルリオーズが「幻想交響曲」に用いた"イデー・フィクス"(主人公の女性を"特定のフレーズ"で表わした)を更に発展させた"ライト・モティーフ"(示導動機)を使ったこと、和声の進行に"解決されずに延々と続く7の和音"を使用したこと、調性がきわめて不安定な"トリスタン和音"を書いたことなどで、無調の時代の先駆的存在としても有名である。ワーグナーはライプチヒに生まれ、10歳の頃ウェーバーに興味を示し、15歳のときベートーヴェンを聴いて深い感銘を受け、17歳のときに彼の「交響曲 第9番」をピアノ曲に編曲した。1831年(18歳)からはライプチヒ大学に入学し音楽と哲学を学び、聖トーマス教会で合唱長のヴァインリヒから和声法と対位法を学んだ。その後、32年に作曲した「交響曲 ハ長調」は、同年、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されたが、最初のオペラ「妖精」(34年)は彼の生前に初演をみなかった。当初、ワーグナーの生活は決して楽なものでなく、マグデブルクの小さいオペラ劇場の副指揮者を務めるなどして作曲を続けたが、その間も借金取りに追われる生活で長いこと国の内外を遍歴した。しかし42年に「リエンツィ」(40年)がドレスデンで上演されると大成功を収め、ワーグナーは一躍有名になった。続いての「さまよえるオランダ人」(41年)は一応、成功はしたものの、「タンホイザー」(45年)は初演の反響がさほどでなく、ワーグナーは49年に革命運動に参加したかどで、国外逃亡を余儀なくされ、62年に国外追放が解けるまでチューリッヒ、パリを転々として歩いた。従って50年に「ローエングリーン」(48年)がリストの指揮によってヴァイマールで初演されたときは、不在であった。しかし帰国後は、64年からワーグナーを崇拝していたバイエルン国王ルードヴィッヒ二世がパトロンとなり、彼の生活は転機を迎え、65年に「トリスタンとイソルデ」(59年)がH.フォン・ビューローの指揮でミュンヘンの宮廷劇場で初演された。ワーグナーは以前からリストの娘でフォン・ビューローの妻であるコジマと同棲していたが、66年には別居していた妻も死亡しており、70年にコジマと正式に結婚した。67年に楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」が完成し、続く大作「ニーベルンゲンの指輪」が74年に完成し、76年には自作上演用に建設していたバイロイト祝祭劇場が完成し、その"こけらおとし"にはドイツ皇帝ヴィルヘルム一世、バイエルンの国王ルードヴィッヒ二世、リストグリーグチャイコフスキー、マーラー、ニーチェら大勢の名士が参加し、ハンス・リヒターの指揮で「ニーベルンゲンの指輪」が上演(4部のうち"ジークフリート"と"神々のたそがれ"は初演)された。晩年は主にイタリアで過ごし、ワーグナーはヴェネツィアで1883年2月13日に他界した。ワーグナーの総合芸術のカテゴリーに入る"楽劇"と呼ばれる作品は「トリスタンとイソルデ」、「ニュールンベルクのマイスタージンガー」、「ニーベルンゲンの指輪」(4部)、「パルジファル」である。彼はギリシャ文学、シェークスピア、ゲーテ、シラーなどに精通しており、オペラ、楽劇の台本を自分でまとめたことでも有名である。数多くのオペラ、楽劇の他に、交響曲、管弦楽曲、ピアノ曲、合唱曲、歌曲なども書いている。


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# 曲名 レベル 試聴
1 アルバムの綴り ホ長調 「無言歌」 中級2
再生
volume
2 M・W夫人のアルバムのためのソナタ 変イ長調 上級1
再生
volume

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