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セルゲイ(セルゲイヴィッチ)・プロコフィエフ
Sergei(Sergeyvich) Prokofiev

セルゲイ(セルゲイヴィッチ)・プロコフィエフ

1891~1953 ロシア人 近・現代 作曲家

プロコフィエフは農業技師の家に生まれ、母からピアノを学んだが、上達が速く、1902年から作曲家グリエールに師事し、04~14年はペテルブルク音楽院でリャードフやリムスキー・コルサコフらに学んだ。プロコフィエフは自作の「ピアノ協奏曲 第1番 Op.10」(12年)の卒業演奏でアントン・ルビンシュタイン賞を受賞している。彼は卒業祝いに親からロンドン旅行を許可され、ロンドンでバレー興業師ディアギレフに会い、大きな影響を受け、以後「道化師」「道楽むすこ」など多くのバレー音楽が彼の作品に加わった。プロコフィエフの創作力は旺盛で、早くは在学時代からオペラ、ピアノ曲、歌曲などを書き、続いて、交響曲、協奏曲、管弦楽曲など、広い分野に多数の作品を残し、新作を発表するたびに名声を確実にしていった。しかしプロコフィエフは、第1次世界大戦、ロシア革命、帝政の崩壊、スターリンの新ソヴィエト社会主義連邦の圧政時代、第2次世界大戦の波乱の中を生きており、革命勃発の17年には「古典交響曲 Op.25」を作曲したが、18年に母国に見切りをつけ、危険の中を新社会主義政権から旅券を得てシベリア経由で日本へ渡り、東京で演奏会をした後、アメリカへ亡命した。そして19年にはシカゴ・オペラの委嘱でオペラ「3つのオレンジの恋 Op.33」を書き、ニューヨークでは"ボリシェヴィック・ピアニスト"としてセンセーションを巻き起こした。その後、彼はヨーロッパ各地とアメリカを広く渡り住み、作曲と演奏に専心したが、27年に母国を訪れると、ソ連への関心が高まり、33年に正式にソ連に復帰した。彼の作風は、当初は反ロマン主義で、前衛的で、リズムもよりパーカッシヴだったが、やがて新古典主義に落ち着き、均整がとれた簡潔で抒情性を備えた音楽になっている。有名なものには前述の他にバレー「ロメオとジュリエット」(35年)、「ペーターと狼 Op.67」(36年)、「ピアノ協奏曲 第3番 Op.26」(21年)、ピアノ・ソナタ中の「"戦争ソナタ"Opp.82、83、84」(40~44年)がある。


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# 曲名 レベル 試聴
1 アレグレット ハ短調 中級2
ありません
2 アレグロ ニ短調 中級2
ありません

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