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モリス・ラヴェル
Maurice Ravel

モリス・ラヴェル

1875~1937 フランス人 近代 作曲家

ラヴェルはフランスのスペイン国境に近いシブールに、スイス人を父に、バスク系のフランス人を母に生まれた。7歳の頃からピアノを始め、1889年に14歳でパリ音楽院に入学し、95年に一度音楽院を去るが97年に戻り、ジェダルジェに対位法を、フォーレに作曲を師事し、1905年まで在学した。彼が音楽院に入学した1889年は、パリでエッフェル塔が完成し、万国博覧会が開かれた年で、ラヴェルは万博で異国の風俗、回教寺院、カンボジアの寺院、タヒチの踊り、シナの塔、ジャワのガムラン音楽などに接して大きな刺激を受けた。彼のピアノ連弾曲「マ・メール・ロワ」(10年)から、この頃の影響がはっきりうかがえる。ラヴェルの生涯は、1901年から3回にわたって挑戦したローマ大賞獲得の失敗以外は、むしろ平穏であった。この件は、後に公正に審査をしなかった審査員に問題があるということでパリ音楽院では大問題に発展した。しかし師のフォーレは失意のラヴェルをかばい、はげましたという。なぜかというと、ラヴェルはそれ以前に、サティの影響を受けて書いたピアノ曲「グロテスクなセレナード」(93年頃)、「古風なメヌエット」(95年)、「亡き女王のためのパヴァーヌ」(99年)、「水の戯れ」(01年)、「弦楽四重奏曲 ヘ長調」」(03年)などで新鋭作曲家として頭角を現わしており、99年には序曲「シェエラザード」を自らの指揮で初演するなど、ローマ大賞の件は彼の作曲家としての未来に全く影響がなかったからだといえよう。ラヴェルは12年にディアギレフのロシアバレー団の依頼で書いたバレー音楽「ダフニスとクロエ」が大成功を収め、作曲家としての名声を確実なものにしたが、彼は同じ頃、同じくディアギレフとバレー音楽を書いていたストラヴィンスキーと交遊を始め、パリの酒場"屋根上の牡牛"で"6人組"(ロマン主義や印象主義に反発し、サティの冷静で鋭い風刺や素朴さと、詩人/劇作家ジャン・コクトーの精神性に傾倒するミヨー、オネゲール、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールら)、ストラヴィンスキー、若い前衛作曲家、芸術家たちとアメリカからきたジャズ・バンドを楽しんでいたという。ラヴェルはドビュッシーと並ぶフランス印象派の作曲家だが、彼の音楽はドビュッシーに比べると、古典派的な構成で、より明確な響きになっている。また、彼のバレー音楽「ボレロ」(28年)などに見られる管弦楽の手法は卓越しており、ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」の管弦楽曲編曲は見事である。ラヴェルは交響曲を除いた広い分野に作品を残しており、ピアノ曲では「ソナティナ」(05年)、「鏡」(05年)、「夜のガスパール」(08年)と、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、ヴィトゲンシュタインのために書いた「左手のためのピアノ協奏曲」(30年)と「ピアノ協奏曲 ト長調」(31年)などが有名である。


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# 曲名 レベル 試聴
1 ソナチネ [3] 上級2
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2 ハイドンの名によるメヌエット 中級2
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3 プレリュード 中級1
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4 ボロディン風に 上級1
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5 シャブリエ風に 上級1
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6 亡き王女のためのパヴァーヌ 上級1
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